渡良瀬通信2008年1月号からスタートした加藤千代さんの連載『月夜の訪問者たち』は、今号で50回目となり最終回を迎えました。
4年2ヶ月に亘り、掲載されたその作品群は、多くの読者の目と心を引きつけました。
そこで今号では、加藤千代さんの染画家としての顔、プライベートな日常などを加藤さんご自身に語っていただきました。
野山を走りまわった子ども時代
加藤さんは、岩舟町で大正時代から採石業を営む旧家に生まれた。祖父の後を継いだ父の時代に採石業は斜陽となり、父は造園業を営むことになる。兄と姉、そして加藤さん、三人兄弟の末っ子は仲の良い家族に囲まれ、のびのびと成長していく。
花嫁修行のろうけつ染め
「絵描きになりたい」と心に決めたのは、小学五年生のとき。その時は芸大に憧れ、後に私立の美術大学を受験した。しかし願いは叶わず、浪人することも許されず、それまで通っていた中・高校一貫のミッションスクールの、さらに上の短大の日本画科に進学した。短大では二年間というわずかな時間で、日本画のほんのさわりを学び、与えられた課題をこなす、そんな日々が続いたという。
その頃の加藤さんは、もはや絵描きの夢は諦め、卒業と同時に両親に勧められるままに、気持ちは結婚へと動いて行った。
結婚が決まると、お嫁に行っても趣味として好きな染めが出来るようにと、母の勧めで『ろうけつ染め』の先生の元に通うようになった。帯と着物を作ることが目的だったのだが…。加藤さんが日本画を描く事を知る先生から、自分の図案をもとに描く、本来のろうけつ染めとは違ったスタイルの制作方法を勧められた。実はこの体験が、現在の加藤さんの染画のスタイルを誕生させた。
染画への思いが深まる中、肝心の結婚への思いは、それとは逆に加藤さんの心に大きな影となって広がっていった。式の日取りが決まり、新築の新居が完成する頃には「結婚を止めたい」と加藤さんは口にしていた。
その後、20代は染画に打ち込む日々が続いた。グループ展『一人と五人展』に出品し、作品を見てもらうことの嬉しさを知り、自分の作品を買いたいと言ってくれる人が現れるようにもなった。29歳になると、初めて個展を開きたいと考えるようになった。
「染画」に懸ける決意
「29歳で初めて、宇都宮の栃木会館ギャラリーで個展を開催しました。多くの方に来場していただき、個展を成功させたことで、30代は『染画』に懸けてみよう!と決意しました。」染画家・加藤千代の誕生である。
個展の会場に、現代工芸藤野屋社長・小林建夫氏の姿があった。「再来年、藤野屋で個展を開催しませんか。」小林氏から、そう言葉を掛けられ、プロとして初めての個展が実現した。以後現在に至る26年間、加藤さんの個展が開催され続けている。
夜の静けさから生まれた作品
構想を練る、ロウ描きをするなど、制作を中心とする部分は夜のアトリエで進められる。
「朝は11時に起床し食事をとると、昼は染めの作業を行い、その合間、コーヒーを飲み新聞を広げたりします。その後は家事や夕食づくりをします。そして、夜も更けてくるとアトリエへ…。30歳の頃から25年以上続けてきたスタイルです。昼間のような雑音が無い、夜の方が集中できますね。」
加藤さんの作品から漂う、あの神秘的な雰囲気は、この夜の静けさの中から生まれる、これは至極当然のことだったのだ。
月光に包まれた世界
作品に登場するモチーフにはいくつかのパターンがある。「キツネ」「フクロウ」「楽器」など、それらのどの作品にも登場しているのが「月」である。加藤さんの代名詞のような「月」はどうやって生まれてきたのか…。
「なぜか『月』を作品の中に入れると、とても落ち着くのです。幼い頃、幼稚園に通っていたときに、先生が弾いたピアノ曲…たぶん『月光』だったと思います。その曲をイメージした絵を描いた事がありました。お城と流れる川に浮かぶ船、その船にはお姫様がいて…その絵をとても褒めてもらい、嬉しかったことを覚えています。絵の中に『月』があったかどうかは定かではないのですが、その頃から月が大好きでした。」
月のある夜の世界が好きで、夜空を見上げては、月の位置や満ち欠けを観察する、そんな子どもだった。年頃になると、自分が見上げているこの月を、あの人もきっと見ているのだろう…などと考えたり。月には恋心をつなぐ力があるような気がするという。
「恋と言えば、これは『あの人』だけに見てもらえればいい、あの人のために描いている。そう思いながら仕上げた作品も多いですね。こういった対象となる人物が必ずいたものです。恋が創作のエネルギーになっていたのですね。今は夜アトリエにこもり、音楽を流したりして、気持ちが作品に向き合いやすいような雰囲気づくりをしています。恋がエネルギーになっていた頃は、少し遠のいてしまったようです。」
体力との折り合いをつける
「昔はね、いきなり木炭で下絵全体を描いたりしたの。濃い色を大胆にドンっとおいてみたり。でも今は、緻密に一つの線を見つけるように描いていますね。薄い色から慎重に重ねていくの。経験がそうさせるのかしら。」
20歳でろうけつ染めに出会い、29歳で初めて個展を開き、染画家としての道を歩むことを決めてから50歳代の今日まで、経験を積み、高度な技術も身に付いている。緻密なライン、計算しつくされた色あい、それらは今の加藤さんには造作無いことなのだ。しかし、昔の自身の作品を観ていて、あの頃に戻りたいと思う事も…。
「若い頃の作品には、今には無い勢いがあるの。テクニックはうまくなっても、作品のなかで、そのテクニックは決して目立ってはいけないもの。集中力や体力のある、若い時だからこそ描ける作品もありましたね。」
130度に溶かしたロウを筆につけ、決めたら迷わず一気に描く。作品の中には屏風のような大作もあり、染画の制作は、時としてアスリートのような動きが必要になることもある。自らの体力と向き合い、折り合いをつけなければならなくなったという。
道化師の登場
女性が登場する事の多い作品の中で、道化師や楽器を持つ男性が描かれた時期がある。
「七年前から四年間、脳梗塞で寝たきりになった父の介護をしていたころです。私と母が中心になり自宅で介護をして、夜中は制作を続けながら私が世話をしていたのです。寝たきりの父は、まるで生まれたての赤ちゃんのように、手をかけなくてはいけませんでした。そんな介護を続けていくうちに、私は自分自身の中に母性が目覚めたように思うのです。子どもを持ったことのない私ですが、何もできない父を愛おしく思えた…あの感情は赤ちゃんに接する、母のそれと似た感覚だったのではないでしょうか。」
介護をしながらも、加藤さんは個展のための作品づくりを続けていた。この頃制作された作品に登場したのが、道化師や楽器を持った男性である。
「なぜ楽器なのかと言われても、明確な意味はないのですが、構想を練っていたとき、ふと頭に浮かんできたのです。楽器は女性よりも男性が持つ方が、なんとなく絵になるという思いもありました。この頃の作品を見た知人に『作品が明るくなった』と言われたこともあります。」
介護と制作活動の両立には、かなりの苦労があったようだ。一度は個展を諦めかけたという。しかし、この体験は作品に影を落とすことはなく、ある種の光をあてることになったのかもしれない
染画とともに魅力的な詩の世界
渡良瀬通信に連載していた『月夜の訪問者たち』では、染画に加藤さんの詩がそえられていた。言葉の表現との出会いは、いつ頃からだったのか?
「15歳のときに、オリジナルの詩集と絵本をつくりました。さらに前、小学生のときには、ジョンという愛犬が死んでしまったときのことを、原稿用紙に何枚にも亘って、ジョンに宛てたラブレターのように書きました。昔から詩を書くことも好きでした。」
そういいながら、加藤さんは15歳の自身が書いた詩集と絵本を手渡してくれた。巧みな言葉使いとちょっとシュールな絵から、染画家・加藤千代の片鱗がうかがえる。
「渡良瀬通信の50回の連載では、絵に詩をつける作業が面白かったですね。いつでもどこでも、思いついた言葉をiPhoneで録音しておいたり。ときには、テレビも音楽も止めて、苦しみながら一言をひねり出す…なんてこともありました。」
「最近では、デジタルカメラやスマートホンを使って、美しい画像や一見手の込んだ画像が、本当に簡単に作れるようになったことに驚いています。しかしその反面、染画のように、手間を掛けた手仕事による作品は、残さなければいけないと思うのです。」