アンビエントな犬
大谷翔平のパートナーがとうとう発覚した。おおきな目に垂れ下がった耳、背丈が中型で物静か……いや無口といったほうがいい。三歩下がってついていく大和撫子のようだが、オランダの血が流れているのだとか。
二度めとなるMVP受賞のよろこびを、くつろぐ部屋からテレビ中継されていたとき、彼の隣には愛人ならぬ愛犬がいた。とりわけ“コーイケルフォンディエ”というその犬種名に衆目があつまる。舌を噛むとはこのこと、とても覚えられない。それもそのはず、日本ではまだポピュラーではないという。
大谷の犬好きを初めて知ったひとも多いだろうが、こどものころ実家ではラブラドールレトリバーを飼っていた。洋犬の定番だが、むかしはちがった。「どこの川?」と多くの日本人におもわれていた80年代に、渋谷のアメカジショップから独立した人物が同名の店を開業したことを想い出す。なるほど、覚えてもらうにはそのテがあったか。ならば店名でもいいし、音楽をつくって曲名にすればいいではないか。
ケンタッキー州パデューカという人口2万のちいさな街で暮らすキャスパー・ケインは、「Kooikerhondje」という曲をほんとにつくって動画をアップした。ふしぎなことに掲載日はMVPを受賞した2ヶ月もまえ。はるばるアナハイムをおとずれ、大谷の住む家を突き止めどのように侵入したのかは謎だが、番犬には不向きな性格ゆえに、キャスパーとも目が合った瞬間ーー中継での大谷と犬のようにーーハイタッチでもしたのかもしれない。
大谷は大谷で、愛犬を隠していた理由はなにか。柴犬を飼うイチローとはまるで異なり、私生活を明かさない。監督、チームメイトでさえ今回初めて知ったらしい。
その点キャスパーの犬好きのわかりやすさはレベルが高い。彼の楽曲にはSUPER CUTE PUPPIESという名前が決まって付される。パピーが本命であることも読めるが、本命以外をなぜ曲名にしたのか。
「そういう質問は音を聴いてからにしてほしい」ーーキャスパーのこころの声が静かに語りかける。シンセ主体のアンビエントミュージックで、これがどういう経緯でコーイケルフォンディエから想を得たのか。考えあぐねるところに、TVカメラにも動じなかった大谷犬の穏やかな性質が浮かんできた。
アンビエントはここ数年奇妙な経路を辿りながら、好事家の知的好奇心をゆさぶっている。この分野はブライアン・イーノが1975年に発表した『Discreet Music』に端を発しているが、ポピュラーになる要素などなった。だが90年代以降、ニッチな音楽好きがあらゆる可能性を探り、本来なら不可能とされていたダンス系など異種との交配に成功することでファンを増やす。
「Kooikerhondje」をソフトに包むアンビエントテクノもその一例になる。キャスパーの主要分野で、同類の投稿本数が現在まで15ほど。手軽なDTMに資され、来年には大台に乗るのも夢ではないだろう。
だがコーイケルフォンディエはちがう。日本では百頭ほどしか登録されていない。ブリーダーもすくないため、近親交配を避けるなど徹底管理も要する。大谷効果でさらに希少になるだろうが、軽率に飼うなどやめて、登録者数3人のキャスパーの動画をたのしんでほしい。
BRIAN ENO
『Discreet Music』
(Obscure)
ミニマル、チルアウト、ニューエイジ、環境音楽……アンビエントに付随する代替語を総括する最適な言辞がこの題“Discreet=ひかえめな”である。街中に散乱するBGMへのカウンターとして提唱。古巣ロキシー・ミュージックへの返報でもあったのか、1975年の本作をもってアンビエントの歴史がはじまる。「Kooikerhondje」について。脱稿後に消去された模様(各ストリーミングにデータは保留)。大谷効果との関係は!? 再掲を待ちたい。
プロフィール
わかすぎ みのる:足利出身の文筆家。 CD、DVD企画も手がける。 RADIO-i (愛知国際放送)、 Shibuya-FMなどラジオのパーソナリティも担当していた。 著書に『渋谷系』『東京レコ屋ヒストリー』 『裏ブルーノート』 『裏口音学』 『ダンスの時代』 『Jダンス』など。ご意見メールはwakasugiminoru@hotmail.com