わたしは笑わない
「私のフランソワーズ」はユーミンのセカンドアルバム『ミスリム』(1974年)に入っている。いくつもの人気曲に埋もれがちだったが、曲名のモデルとなったフランソワーズ・アルディが亡くなり(6月11日、享年80)、ネットの検索数がとつぜん上がった。それも皮肉なことに、本家よりも、本家のことをうたったユーミンの動画再生回数のほうが多い。
理由といえるほどのことではないが、ユーミンには大衆がもとめるわかりやすさがあるいっぽう、本家にはそれがない。なにをうたってもユーミンという意味ではキムタクの演技と双璧だが、アルディの歌も「10着しか服を持たない」とうそぶくパリジェンヌの典型のようで、それはそれで気難しそうではないか。
1962年に「Tous Les Garçons Et Les Filles(男の子と女の子)」でデビューしたときはちがった。このとき彼女に与えられたキャラは“隣の女子”。ところが、イエイエ(仏版ロックンロール)の人気が下火になった60年代後半になると、まるで“近寄りがたい女子”に転役、内省的な歌を好むようになる。
とにかく笑わない、という印象もアルディの個性といっていい。撮影日は仏滅と決めているのか、笑ってるジャケットをみたことがない。笑わないジョーン・バエズともいえるが、それがそのまま曲調にもあらわれる。一言でいうなら暗い。身も蓋もない説明だが、ユーミンならその暗さ加減を、“去りゆく青春”だとか“夕映え”だとかといった平易なレトリックで調整したりするから胸にすとんと落ちる。ようするに「暗いというのは垢抜けてるってことよ」だろう。
暗さを洗練の極みへと向かわせるにあたって、1974年の『Françoise Hardy』(写真)はターニングポイントとなった。なにより“わたしのフランソワーズ”といえばこの一枚。手にしたきっかけが、トゥカというブラジルのSSWがプロデュースしていたこと。着眼点としてこれはとくべつなことではなく、“90年代にアルディを初めて聴いた”というひとにとっては平均的なことといっていい。トゥカのカリスマ性は90年代のブラジル・ブームが生み出したからである。
ふたりは同い年だった。アルディは共通の友人に連れられパリのレストランでトゥカの演奏を耳にし、すぐさまこころを奪われるー「“あなたにうたってほしい”と曲がささやいているわ」。まもなく制作に入ると、これまでにない親密な時間がふたりを包んだ。もうひとりのじぶんとの会話をたのしむように。トゥカも、アルディから遅れること3年、最初のアルバム『Meu Eu』(1965年)をリリースしているが、暗さではまったく負けていない。
ただし、そのような“暗室”があまりに居心地がよかったのか、アルディが築いたポップシンガーとしての実績がかすんでしまうほど、大衆に背を向ける作品となった。はたして関係者には高評だったものの、セールスは不振におわる。
晩年の取材でこう述懐している。「わたしなりの洗練をめざしたけど、人気は得られなかったわね」。後悔するどころか自慢話に聞こえるが、この瞬間ようやく白い歯をこぼしたのだろう。
TUCA
『Meu Eu』
(Chantecler)
60年代後半、軍事クーデターで多くのブラジル人アーティストが亡命するなか、パリに渡ったトゥカ。おなじ亡命先となった“ボサノヴァの女神”ことナラ・レオンのパリ録音にも参加する。繊細さはアルディ以上。摂食障害に苛まれながら33歳で夭逝。アルディのアルバムは通算11枚め。トゥカの半生が反映されるように人生の光と影、恋愛のもつれや官能、神秘がテーマに敷かれる。後年の再販を機に『La question』と改題(収録曲より)された。